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笑いを知りたければ、彼に聞け。実力と人気を兼ね備えたイタリアを代表するコメディー作家。家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| アキッレ・カンパニーレのご紹介 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| シルックハット、スーツに片メガネがトレードマークのアキッレ・カンパニーレ。その生涯ユーモアにあふれた作品を書き続けた彼は、ウンベルト・エーコ(Umberto
Eco)やエンツォ・シチリアーノ(Enzo Siciliano)をはじめとする名だたる作家たちから称賛を受けるだけでなく、フランスでも成功を収めたまさにイタリアを代表するコメディー作家である。 アキッレ・カンパニーレは1899年9月28日、ローマで生まれる。彼の父、ガエターノ(Gaetano)はカンパーニア州カセルタ(Campania/Caserta)出身で、無声映画の監督なども務める当時の知識人。かのルイージ・ピランデッロ(Luigi Pirandello)なども出入りする文学サロンに通う人物だった。五人兄弟の二番目に生まれたアキッレ・カンパニーレ、彼ら家族の結びつきは深く、中産階級カンパニーレ一家はヒエラルキーの激しい当時のローマを悲しみと喜びを分かち合いながら生き抜いていった。ちなみに父は彼を造船技師に、母は司祭にさせたかったそうだ。どちらも当時において利のある職で、両親から長男アキッレへの期待が伺える。 しかし学生時代から文章を書くのが好きだったカンパニーレ少年は高校卒業後の1918年、父ガエターノの働いていた新聞社トリブーナ(Tribuna)紙で校正として働き始めるのである。当初父ガエターノは反対していたものの押し切られてしまった。当時の校正という仕事は間違えを正すだけの退屈な仕事だったと本人は振り返っているが、彼のその後のキャリアの上での重要な第一歩であった。そして1920年、トリブーナ紙編集長の紹介でイデーア・ナツィオナーレ(Idea Nazionale)紙で編集の仕事に就く。そこでの彼の仕事は記者たちが書いた記事を紙面上に配して新聞を構成するというもの。しかし他の記者たちとの信頼関係は築けなかった。本人いわく記者たちがくだらない記事を書くものだからそれに手を加えておもしろくしなければならなかったとのことである。そんなある日どうしても紙面を埋めなければならなくなり、カンパニーレは自分が書いたローマの人の生活を描いた文章を編集長のところに持っていった。それは作家カンパニーレとしての始まりだったと言えるだろう。 その後様々な新聞社で仕事を受け持つカンパニーレ。1922年、当時の政治を辛辣に風刺するトラヴェルソ・デッレ・イデーエ(Traverso delle Idee)紙で働くこととなる。カンパニーレはその付録冊子に自身の初めての小説となる“Matta Heri”(ジョーカーのエリー)というスパイの冒険譚を書くことになる。しかし1925年、おりしもファシズムが台頭し、紙はその表現を自粛せざるを得なくなった。カンパニーレもまたその風潮には逆らえない部分があった。しかしその中でも彼は自身のユーモアとアイロニーを追求していった。1927年、初の単行本“Ma che cosa è questo amore?”(その愛はなんだ?)を発表。コメディー作家、カンパニーレの名が世間に知れ始める。続いて1932年、トリノ大手新聞社Gazetta del Popolo紙で一人の兵卒を主人公にした“Battista al Giro d’Italia”(バッティスタのイタリア紀行)を発表。翌年には“Cantilena all’angolo della strada”(街角の与太話)で一回目のヴィアレッジョ賞(Premio Viareggio)を受け、キャリアの頂点を極めた。 そして1940年、詳細は不明だがマリア・ローザ・リーザという女性と結婚をする。しかし本人いわく彼女は悪女だったらしく、ほどなく夫婦仲は壊れることとなる。ちなみに因果があるのか結婚の翌1941年には“La moglie ingenua e il marito malato”(無邪気な妻と病気の夫)という小説を発表している。時を経て1955年、当時若干17歳で彼のいとこと同じ公証人事務所に勤めていたジュゼッペ・ベッラヴィータことピヌッチャと知り合い、再婚をはたす。新婚旅行では父と娘が旅行しているように見られるほどだったそうだ。翌年2月10日には最愛の息子ガエターノが生まれる。その息子への溺愛ぶりはたいへんなものだったようだ。至福のカンパニーレ、1958年には“Codice dei fidanzati”(恋人たちのコード)でバグッタ賞(Premio Bagutta)を受賞する。 ![]() 1969年、晩年のカンパニーレは愛妻ピヌッチャとともにコモ市ラリアーノに移り住む。いわゆる隠遁生活に入ったのだ。このころも精力的に作品は書き続けたが、シルクハットに片メガネの代わりに長く伸びた白い髭をたくわえるようになった。1973年に今回我々が翻訳した(「悩ましき翻訳の日々」のコーナーで紹介)短編“Il bicchiere infrangibile”(割れないグラス)を含む“Manuale di conversazione”(会話マニュアル)で二度目のViareggio賞を受賞。1976年、死の前年にはForte di Marmi賞を受賞。翌1977年1月4日、ラリアーノで気管支炎からくる心不全で亡くなる。77歳だった。 「生誕、結婚や死など人の生活というものは次々と様々な出来事が起こるものだ。そのもっともつらい出来事こそ喜劇的要素をはらんでいる」。コメディー作家、カンパニーレの生涯はこれまでみてきた通り決して楽しいことばかりではなかった。しかし彼がユーモアある作品を書き続けたエネルギーというのはそんな彼の理念に裏付けられているのではないだろうか。 <文:ハムエッグ大輔> ▲このページのトップへ戻る |
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