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笑いを知りたければ、彼に聞け。実力と人気を兼ね備えたイタリアを代表するコメディー作家。
ウモリズモだよ、人生は その2 〜ザヴァッティーニとゴーゴリ〜
  クローチェ(Benedetto Croce)とピランデッロ(Luigi Pirandello)が小競り合いをしていた頃から、ざっくばらんに時代と場所を変えてみましょう。時は1852年、ロシアはモスクワ、歴史に名を残す偉大な喜劇作家が断食死しました。彼の名はニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ、画像下)。彼の作品は、ある朝起きてみると鼻がなくなっていという官吏の珍事件『鼻』や、自分をスペインの王族だと勘違いする低級役人が書き綴った『狂人日記』などなど、どれも奇想天外で滑稽な人物が登場するものばかりで、ピランデッロ的狭義に当てはめてみても、まさに生粋のウモリスタと呼んでいいでしょう。このゴーゴリが作品を書き始め、43歳で変死するまでの経緯を追ってみたいと思います。



  ゴーゴリが初めて自分の作品を世に出したのは、彼が20歳、当時の首都サンクト・ペテルブルグに来て約半年ほど経った1829年のことでした。田園叙事詩『ガンツ・キュヘリガルデン』。官吏職に就くことを失念して自費出版した入魂の作品でしたが、酷評を被ります。これにショックを受け本屋から作品を回収、焼却処分してドイツへ傷心旅行に出かけます。後年の彼に見るメンタル面の弱さはこのころにもすでに見られていたのでした。その後なんだかんだで下級官吏に甘んじて、ほそぼそと執筆活動を続けていたゴーゴリ。1831年、22歳にしてあこがれていた反逆のカリスマ詩人、アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキンに出会います。翌年に刊行した『ディカーニカ近郷夜話』が、プーシキンから絶賛されると、味をしめて『ネフスキー大通り』、『肖像画』、前述の『鼻』、『狂人日記』など、後に代表作と呼ばれる小説を次々と執筆します。

  ところで、彼が出版をするにあたっていつも付きまとう問題がありました。それは帝国ロシア政府による検閲。要するに彼が書く作品には、あまりにも当時の帝政ロシアを批判した内容が含まれていたのです。例えば先ほども少し触れた『鼻』を例にとってみましょう。ある朝目を覚ました八等官コワーリョフが、ご機嫌で鏡をのぞいてみると自分の鼻がなくなっているではありませんか。いっぽう町の理髪師イワン・ヤコーヴレヴィチの食べようとしたパンの中からその鼻が出現。お互い困った二人の男が町を駆け回って四苦八苦するお話です。鼻がなくなった役人が、惨めにも尊厳を保とうとする姿は最高におもしろいのですが、それが政府を皮肉った表現にあたるというのが、お上のご意見でした。

  そんな感じでたびたび内容の変更や出版の延期などの苦労を被ったゴーゴリだったのですが、極めつけが1836年、プーシキンに後押しされて発表した劇作品『検察官』でした。ある田舎の村に、もうすぐ首都ペテルブルグから検察官がやってくるという噂が流れます。村のお偉いさんたちは、自分たちが汚職をしているものだから、この噂にえらくビビってしまいます。そんなわけで敏感になっていた村のみんなは、偶然村に立ち寄った若者を検察官と勘違い。あわてふためき彼をもてなします。状況に気づいた若者も調子にのってやりたい放題…。オチの設定まで細かくこだわった秀逸な劇作品なのですが、このテーマが上流階級の逆鱗に触れ、たいへんな迫害を被ることになります。

  それを回避すべくドイツへと逃亡したゴーゴリは、プーシキンの協力の下、なんとか作品を発表し続けます。プーシキンの訃報にショックを受けながらも各地を点々として、『外套』、長編『死せる魂』に着手します。ダンテの神曲に倣った三部構成を予定していたこの作品は、ある小地主が死んだ農奴を大量に買い付けて、それを生きていることにして売りつけようとする、なんとも醜い金儲け話なのですが、死んだ農奴を売る地主たちがまた、どいつもこいつも曲者ぞろいで苦労するという、農奴を抱える地主たちの意地汚さ、主人公の苦労する姿を通して農奴を売り物にすることの酷さを伝える、力の入った作品です。ところで、大プーシキン亡き後、ゴーゴリを支援してくれたロシア文学者がいました。彼の名はヴィッサリオン・グリギーリエヴィチ・ベリンスキー(Vissarion Grigor'evi? Belinskij、画像右)。もともとロシア専制政治を激しく批判していた彼は、ゴーゴリの作品を褒め称え、尽力をもって『死せる魂』第一部を刊行します。

  このころから、ゴーゴリの精神的健康状態が悪化をたどります。それが講じてなのか、神秘主義に信奉し、友人との手紙の中でしきりにロシア正教、および皇帝にたいして敬虔しさを示すようになります。ゆえに、1847年、ペテルブルグで『友人との往復書簡』が出版され、ゴーゴリの心中が知れたときのベリンスキーの怒りようといったら大変なものだったようです。そしてすでに肺の病に苦しんでいたベリンスキーは療養地のドイツからゴーゴリに向けて手紙を書きます。その中では、ゴーゴリへの失望、怒りから始まり、文学こそが専制に立ち向かえる唯一の術で、それを自覚し我々は創作を続けなければならないということが滔々と語られました。この『ゴーゴリへの手紙』は広く読み継がれ、その後のロシアで起こった農奴解放運動や革命民主主義に大きな影響を与えています。

  翌年、ベリンスキーが死んだ後も、ゴーゴリは各地をふらふらし、『死せる魂』第二部を書き進めたのですが、1852年、ローマ滞在中に知り合った神父マトヴェイ・コンスタンチーノフスキーの教えにいよいよ取り入られ、ほぼ完成していた『死せる魂』第二部の原稿を焼き捨てて、断食に入り、数日後死に至りました。



  つまり、帝政を辛らつに風刺していたゴーゴリだったのですが、その精神の薄弱さから後年、神秘主義に傾倒し、気持ちが揺れる中でついには書きかけの風刺作品を捨てて死を選んだ、というのが一般的な見方です。それに対して意義を唱えたのが、ロシア文学科出の作家、後藤明生さんです。曰く、「ゴーゴリが作品の中で真意として書きたかったのは風刺だったのか?」。「そう見ることで、ゴーゴリ作品の本当のおもしろさを見逃しているのではないか?」。彼が注目したのは、1836年の『検察官』発表によって激しい批判を受けた後に書かれた劇作品『芝居のはね』です。これはある喜劇の上演後、舞台裏で出演者たちが出来について、喧々囂々話し合うというなんとも特殊な設定の劇作品なのですが、それがゴーゴリ自身の喜劇論、『検察官』で被った批判に対する弁明であると、後藤氏は指摘しています。作品の最後、出演者たちが各々の意見を述べ合った後で、脚本の作者が出てきてこう言います。

  
脚本の作者:〔登場〕ぼくが予想していたよりも余計に聞くことができた。なんというとりどりの評判だろう! 社会がまだ一つの身動きのとれない全体に融け合っていず、またその社会がすべての人の思想を同一の形式と尺度にとじこめる古い偏見という一つの皮におおわれてもいないで、各人がそれぞれの意見を持ち、すべての人が自分の性格の作り手であるといったそういう国民のあいだに生まれた喜劇作家は幸福だ。これらの意見にはなんという多様さが見られるのだろ、いたるところにこのしっかりした、明晰なロシヤの知恵がなんと輝いたことだろう! 政治家のあの気高い志向の中にも! 田舎に隠れた官吏のあの崇高な自己犠牲の中にも! 寛大な女心のあの優しい美しさの中にも! 鑑賞家たちの審美感の中にも! 民衆も素朴な、正しい勘の中にも! あの悪意ある非難の中にすら喜劇作家が知るべきことがいかに多くあることだろう! なんという生きた教訓だろう! そうだ、ぼくは満足した。だがいったいどうしてぼくの心は悲しくなるのか? 不思議だ。ぼくは、ぼくの脚本の中にいた一人の正直な人物にだれも気づかなかったのが残念なのだ。そうだ、脚本のはじめからしまいまでその中で活躍していた一人の正直な、気高い人物とは――笑いであった。彼は気高かった、なぜなら彼は世間で彼にあたえられている低い意義にもかかわらず登場することを決意したからだ。彼は気高かった、なぜなら彼は喜劇作家に侮辱的なあだ名を、――つめたいエゴイストというあだ名をあたえ、彼がやさしい心の動きの持ち主であることを疑わせさえしたにもかかわらず登場することを決意したからだ。だれもこの笑いの味方をしなかった。ぼくは喜劇作家だ、ぼくは彼に正直に仕えた、だから彼の味方にならなければならない。いや、笑いというものは世間で考えているよりも意味深長な、深刻なものだ。それは一時の興奮によって、癇癪もちの、病的な性向によって生まれるあの笑いとはちがう。人々ののんきな気晴らしや娯楽のために役立つあの軽い笑いともちがう。――しかし人間の明るい天性から生まれてくるあの笑いは、人間の天性の底に永遠に噴き出る笑いの泉がひそんでいるからこそ生まれてくるのだ。…

  とめどもない脚本の作者の力説は残り優に3ページ分ほど続きます。つまり、『検察官』で非難を浴びたのを受けてゴーゴリはこう主張したのです。「私が本当に伝えたいのは、社会風刺でも扇動でもなく、笑いなんだ!」と。「しかし笑いというものは世間から、あまりにも浅薄なものだと考えられている。それは違う。本当の笑いとは気高く、人間の根底にあるものなのだ」。この時点でベリンスキーの思想とは、真逆もいいところ。烈火のような非難の手紙をいただくとっくの前から、ゴーゴリは彼とは相容れない性質だったと言えるでしょう。後年の神秘主義や変死の謎は解けないものの、彼が未完の『死せる魂』を焼き捨てるまで長きに渡って、自分の笑いが理解されない、社会風刺という観念に阻まれて、読者のうちのだれ一人として自分が表現している笑いのレベルまで到達してくれないという苦悩を孕んでいたことは確かでしょう。ずっと歴史が進んで、ソビエト連邦までも崩壊した現代社会に生きる私たちだから、容易くこのような見方ができるのかもしれませんが、彼は『死せる魂』において、笑いを通して農奴解放を訴えたのではなく、農奴解放というテーマを通して笑いを表現したかったのです。



  さて、時空軸のつまみをぐるりと戻して、1930年代イタリア、自らが表現する笑いに対する世の評価について、辟易する人物がここにも一人。イタリアの映画脚本家、チェーザレ・ザヴァッティーニ(Cesare Zavattini)。当時彼は、中産階級の娯楽用に発行されていたウモリズモ雑誌(periodici umoristici)界隈で、売れっ子の作家だったのですが、1938年から我らがアキッレ・カンパニーレ(Achille Campanile)と共に、隔週ウモリズモ雑誌『セッテベッロ』(il Settebello)を主催しており、紙上では短いコラムを連載していました。その中に次のようなものがあります。

  
詩を好み、それを読む人はさしずめ1000人程度だろう。平均すると、一つの都市に一人といったところだ。多くの人は詩人が名を上げたときにのみ、その存在を知るのだ。いつもそうだ。そしてそれで終わってしまう。

  さて読者諸君、私を叩かないでくれよ。きみたちが「イタリアの詩人なんてパスコリ、カルドゥッチ、ダヌンツィオで終わりじゃないか」と言いたいのはわかっている。「どこのどいつが詩人なんだ?」昨日トラムの中で、デフェンディとかいうお偉いさんが叫んだ。

  私は、ウモリズモ雑誌全部が全部、彼のような考えじゃない事をみんなにわかって欲しい。4年前、『コッリエーレ・デッラ・セーラ』(Corriere della sera)でアルナルド・フラッカローリ(Arnaldo Fraccaroli)がジュゼッペ・ウンガレッティ(Giuseppe Ungaretti)についての仕様もないギャグを書き記したとき、いわゆる誠実な読者がどれだけ吹き出しそうになったか考えてみてくれ。先月、フラッカローリの弟子の一人が、ある文学ウモリズモ雑誌でクヮジーモドなど、第一次大戦後のイタリアの詩について連載記事を書き始めたのが、どれだけおもしろいか考えてみてくれ。

  ウモリズモ雑誌も、つまり私たちの雑誌もまた、文学的ではなくとも詩に対する深い情愛を持っていて、恥ずべきことに、簡単にそれを笑いものにすることができるのをわかって欲しい。

  ウモリズモはどのような働きをするのだろう?

  今までに述べた事柄から、たくさんの良識ある人々が、今日まだ、ウモリズモは二次的に生まれる物だと思っていることがわかる。

  すべての芸術体系と同じく、ウモリズモとは実の中身に基づくときのみ、その重みが生じる。

  しかし私は、その誠実さゆえにウモリズモっぽくなってしてしまう物事について喋っているのだよ。そうだろう、読者くん。

  世界は震え、開戦前夜だ。歴史は荒れ狂う空を突き抜け、諸君は詩に対して詭弁を並べる。それじゃあだめだ、若いの。詩とは華なのだよ、若いの。

  それではこっそり詩でも読むとするよ。


  ザヴァッティーニ(画像上)は、詩のススメと共にウモリズモの原理を解説しています。「今日敬遠されている詩という芸術は、ウモリズモ雑誌という目的を異にする文化の中にも内在している。しかしそれは、えてして笑いの一要素に堕してしまいがちである。その理由は、大衆がウモリズモを芸術の副産物だと考えているからである」。時代的なことを考えると、もちろんこれは、前回述べたクローチェの『美術論』(L’estetica)におけるウモリズモの項を読んだ上での批判だと考えられます。このように、ザヴァッティーニは大衆が思うウモリズモ観に対して警鐘を鳴らした上で、説明を続けています。「すべての芸術体系と同じく、ウモリズモとは精神的内容に基づくときのみ、その重みが生じる」。つまり、ウモリズモとは、ある事象に付随して起こるのではなく、その中身があってこそ成り立つもので、それはまさに一芸術であると言うのです。ウモリズモが世間で低く評価されている。だがそれは実はとても高尚なものであるというザヴァッティーニの論説は奇しくも、否、笑いを扱う作家としては当然、『芝居のはね』におけるゴーゴリの笑いの解釈と符合しています。



  ゴーゴリ、ザヴァッティーニを始めとして、さまざまな芸術または作品における社会的意味合い以上に、笑いを価値のあるものとして捉え、それを追求していた人々がいました。その高尚な笑いの一タイプを「ウモリズモ」、その求道者を「ウモリスタ」と呼べるのかもしれません。それでは最後に、次回への導入としてもう一作、セッテベッロからザヴァッティーニが書いたコラムを見てみたいと思います。雑誌の共同主催者カンパニーレに宛てたものです。

  
カンパニーレへ

  私は、何週間、何ヶ月間にわたって散髪屋どもが素晴らしく、かつ記念すべき論争を行うことを知っている。テーマは営業時間について。8時3分じゃなくて8時に店を開け、1時45分じゃなくて2時に休憩。7時15分や7時20分じゃなくて8時に店を閉めるとのこと。

  そうじゃなくて、手を洗いたまえ。

  全責任を一辺に引き受け、腹の底から叫ぼう。ヴェネト通りの散髪屋も、人里離れた山村の散髪屋も、いかなる値段の散髪屋も、自分の手を洗わない。イタリアでは、金持ちでも貧乏でも、散髪屋はヒゲ剃りの後に違う客のヒゲを剃るときに手を洗わない。なぜだい?

  あるものは言った。西暦2000年にもなれば、人々は鼻にしわを寄せて語り草にするだろう。「昔々、ラジオというものがありましたとさ。ギアのない車がありましたとさ。英雄が、詩人が、手を洗わない散髪屋どもがおりましたとさ」

  なぜだい?

  やつらの手は汗くさくてタバコくさい。先客の顔にオー・デ・コロンを拭きつけて、その液体と汗がまざる。やつら鼻毛を切る。そのきれっぱしが爪の中に残るんじゃないのか。その手で客を触るし、ご丁寧にマッサージをする。日の経ったポマードのせいでベタベタの髪の毛をかき回す。そうだろう? そうなんだろう?

  まったく、一人の客から次の客に移るときは手を洗ってくれよ。そういう制度が必要なんだろうな。かみそりは消毒しなければならないと決められているしな。(ところでかみそり用ブラシはどうなのだろう?)

  ダンスでもおっぱじめるみたいなにっこにこの笑顔で迎えてくれるだけじゃダメなんだよ。いいから、手を洗いたまえ。手を洗いたまえ。手を洗いたまえ。

  親愛なるカンパニーレ、我らがこの最愛の雑誌を、悩ましくも情熱的な雑誌の中の雑誌を、どうしてやろうか? 今じゃ誰もまともに取り合ってくれないじゃないか。きみが青天霹靂なる物事を書けば笑われる。私が先駆けとなって、意識的に賢明な伴侶を務めると笑われる。ウモリズモ、ウモリズモ、と笑われる。

  まったくいやになるね。

  そんなわけで、今日も私は散髪屋の先客であるパッピ氏の臭い、または匂いを鼻先でかぎ続ける日々を送るのだ。


  散髪屋が手を洗わないという日常生活的不満と同様に、やっぱり世間が評するウモリズモに納得がいっていないご様子のザヴァッティーニ。さてさて、それに対して我らがお宝アーティストはどのように応えていたのでしょうか。当時人気を誇ったウモリズモ雑誌といっしょに、それについて考えてみたいと思います。  (その3へつづく)


  <文:ハムエッグ大輔>

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