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ドーナッツたちのコラム

悩ましき翻訳の日々
デ・シーカじゃありません、デ・セータです。1923年生まれですが、まだまだ現役。独自の眼力でドキュメンタリー映画に映像美を盛り込む稀有な監督。
バイオグラフィー
  手元にある研究本を開くと、シチリア島の州都パレルモ(Palermo)にあるパラッツォ・デ・セータ(Palazzo De Seta、正確にはPalazzo Forcella De Seta)という豪邸の写真と、さらにその建物のテラスにいるヴィットーリオ・デ・セータの3歳の姿を見ることができる。1923年10月15日パレルモで生まれているから、テラスの写真は1926年の冬のものだ。ヴィットーリオ坊やは、白い厚手のコートと毛糸の帽子を身につけている。明らかに富裕層的に着飾っているし、そもそも家族の名を関した建築が残っているのだから、さぞ恵まれた家庭なのだなと想像することができる。事実、デ・セータ家は南イタリアのカラブリア州(Calabria)に起源を持つ名家で、幼い頃から優雅な世界に近いところで彼は育った。

  1941年にローマに移り、建築を学ぶ。戦時中には海軍士官学校に進むも、1943年にドイツ軍の捕虜となる。サロ共和国(Repubblica di Salò、イタリア社会共和国)に与することを拒否し続け、囚われの生活は1945年まで続く。この時期に、それまで縁のなかった肉体労働者や農民との密な接触を持ったことが、後の彼の思想と映画制作に影響を及ぼすことになる。

  戦後、ふたたび建築を学び直そうとするも、もはや彼の関心はそこにはなく、映画や写真、社会問題に興味を示す。1947年には、共産党へ入党している。同時に、映画関係者との個人的な付き合いもあったことから、映画への接近は加速度的に進む。1953年に、後にジャン・ギャバン(Jean Gabin)主演で『レ・ミゼラブル』(Les miserables、1957年)を撮ることになるジャン=ポール・ル・シャノワ(Jean-Paul Le Chanois)の監督作品『愛のバカンス(訳は伊題より筆者)』(Le village magiqueVacanze d’amore>)に、助監督兼共同脚本家として参加し、映画界にデビューする。同年、オムニバス映画『半世紀の愛(訳は筆者)』(Amori di mezzo secolo、ロベルト・ロッセッリーニ/ピエトロ・ジェルミ他)に参加し、ルイージ・キアリーニ(Luigi Chiarini)監督の挿話で第2助監督を務める。デ・セータはしかし、このふたつの仕事に満足することなく、翌1954年、ジャン・ルノワールの『黄金の馬車』(Le carrosse d’or、Jean Renoir、1953年、画像右)で助監督を務めたヴィート・パンドルフィ(Vito Pandolfi)と共に、監督デビュー作『シチリアの復活祭(訳は筆者)』(Pasqua in Sicilia)を16mmの白黒フィルムで撮る。この作品のカラー35mmリメイク版を含む、1954年から1959年の間に撮られた10本の短編ドキュメンタリー映画は、近年マーティン・スコセッシ(Martin Scorsese)によるアメリカでの紹介と、ボローニャ市立シネマテークの復元によって、一躍世界にその名が知れ渡るに至ったが、それ以前から、一部ではほとんど伝説的に扱われてきた作品群である(近い将来公開するフィルモグラフィーを参照)。



  1961年には、『オルゴソロの盗賊』(Banditi di Orgosolo)で長編映画デビューを果たす。「ネオレアリズモの正当な後継者」、「新しいネオレアリズモ」などと評され、同年のヴェネツィア国際映画祭ではコンペティションにノミネート、金獅子賞は逃すもののデビュー作賞を受賞する。1966年に発表した、精神を病んだ男の物語『半分の男(訳は筆者)』(Uomo a metà)は、同じくヴェネツィア映画祭に出品され、様々な議論を巻き起こす。一方で、アルベルト・モラヴィア(Alberto Moravia)やピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini)などの一部の知識人は、デ・セータ擁護のコメントを出し、高く評価している。1969年には、デ・セータのキャリアにおいては初めて、他者によるプロデュース作品『招かれた女(訳は筆者)』(L’invitata)を制作する。脚本にはトニーノ・グエッラ(Tonino Guerra)、出演陣にはミシェル・ピコリ(Michel Piccoli)やジャック・ペラン(Jacques Perrin)が起用されるが、編集や選曲などを自ら担当することは許されず、また、興行的には一定の成功は得るものの、評判自体は芳しくなかったと言われ、デ・セータにとっては不本意な結果となった。

  1973年冬、イタリア国営放送RAIのテレビ番組として、4回に渡って、『ある教師の日記(訳は筆者)』(Diario di un maestro)が放送され、人気を博す。学校教育問題に光を当てたこの作品は劇場公開用に再編集され、『ピエトララータでの一年(訳は筆者)』(Un anno a Pietralata)という短縮版の作品も存在する。1979年にはふたたび学校問題に取り組み、テレビ映画『学校が変わるとき(訳は筆者)』(Quando la scuola cambia)が同じく4回に渡り放送される。その中では、戦後のネオレアリズモのひとつの手法と言われる「アンケート映画film-inchiesta」と呼ばれるインタビュー形式が採用された。

  再度RAIの要請を受け、1980年には、彼の初期作品の舞台でもあったシチリアについてのドキュメンタリー番組『シチリア再訪(訳は筆者)』(La Sicilia rivisitata)を撮る。最初に考えられたタイトル「ある文化の終焉…、そしてその後は?」(Fine di una cultura... e poi?)が示すとおり、25年以上が経ったシチリアの変貌ぶりを追跡している。同年には、ベトナム難民問題を取り上げた『難民の街、香港(訳は筆者)』(Hong Kong, città dei profughi)も制作している。

  1983年に『ヴェネツィアのカーニヴァル(訳は筆者)』(Un carnevale per Venezia)を撮った後で、デ・セータは一時映画を離れる。映画制作と人生の両方でパートナーであった妻ヴェラ・ゲラルドゥッチ(Vera Gherarducci)が他界し、また、自身も目を患ったからだ。この時期、デ・セータは、カラブリアにある自宅のオリーブ畑の世話に精を出していたと言われるが、その間にも宗教への関心を膨らませ、福音書を取り上げた映画の構想などを練っていたようである。



  沈黙を破り、ふたたびデ・セータが映画界に戻ったのは1993年。18ヶ月にも及んだ制作期間を経て、自身の起源でもあるカラブリアに焦点を当てた作品『カラブリアにて(訳は筆者)』(In Carabria)で復帰を果たす。

  1995年に出版されたデ・セータ関連の著作には、「現在、イタリアにおける移民問題を取り上げる長編を制作中である」とあるが、その作品が光の目を見るのは2006年8月、ゆかりのあるヴェネツィア国際映画祭である。この最新作の名は、『サハラからの手紙』(Lettere dal Sahara)。10年前の関連本で予告されたとおり、イタリアに渡ってきたセネガル人青年の物語である。

  ヴィットーリオ・デ・セータ、御年取って85歳。昨年、ミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni)が94歳でこの世を去ったが、彼を失った現在にあっては、マリオ・モニチェッリ(Mario Monicelli、92歳)に次ぐ、イタリアの中でも最高齢層に属する現役映画人だ。世に広く巨匠と呼ばれるエルマンノ・オルミ(Ermanno Olmi、76歳)やタヴィアーニ兄弟(Vittorio Taviani、78歳/Paolo Taviani、76歳)でさえ、デ・セータより年下なのである。なぜそんな作家が見過ごされ続けたのか?

  貴族的な生まれや戦時中の経験のなせる業なのかは現時点で定かではないが、比較的自由人率の高い映画界にあっても、デ・セータはかなり強い「自由人の香り」を放っている。「インディペンデント」とも形容されるそのスタイルは、あるいはそれゆえに彼自身を商業主義の周縁に追いやり、商業主義的には「知名度の低い作家」というレッテルを彼に用意した。しかしより正確には、インディペンデントなるものが世に容認される以前から彼はすでに独立していて、そんな一歩先んじたデ・セータをきちんと把握し切れなかった世間が、遅ればせながら後付け的に与えた評価が「インディペンデント」であり「知名度の低い作家」なのである。デ・セータ自身は、そんな自らの身辺の状況を知ってか知らずか、大御所となった今も、かつてと変わらず自分の王道を優雅に歩き続けているだけなのである。

  イタリアの血を引くマーティン・スコセッシによって2004年にアメリカの現代イタリア映画祭 “Open Roads”で紹介され、2006年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)で特集上映が組まれた。短編10本を含むいくつかの初期作品も、ボローニャのチネテカによって復元された。独自路線を進み続ける埋もれかけの映画監督は、そうした多方面の尽力により、世界でもようやく知られるようになった。どことなく世話の焼けるところなどは、「我が道を行く尊き血」然としているが、実際に彼の作品を目にした後では、じっくりと丹念に世話を焼くに値する作家であることもよくわかる。ドキュメンタリー映画についての話題があいさつ代わりに交わされる今の日本で、このお宝映画監督をこのまま見逃し続けることによって失うものは、甚だ大きいようにも思える。

  <文:オールドファッション幹太>

  =参考文献=
  Goffredo Fofi e Gianni Volpi, Vittorio De Seta ? il mondo perduto, Lindau, Torino, 1999
  Alessandro Rais (a cura di), Il cinema di Vittorio De Seta, Giuseppe Maimome Editore, Catania, 1995


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