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お宝アーティストご紹介

ドーナッツたちのコラム

悩ましき翻訳の日々
ODC結成の引き金となった、現代イタリア演劇の大御所。
ダリオ・フォーのご紹介
  イタリアを代表する演劇人。演劇人という言葉を使うのは、劇作だけではなく、演出、役者、舞台芸術もこなすから。多才多芸にも程があります。彼が演技をしている映像を見たことがありますが、恐るべき身体表現。どうやったらあんなに体がクネクネと動くのか? 一見重そうな体も一旦演技に入ると俊敏極まる。イタリア語が聞き取れなくても、彼の身体から情報・感情が溢れ出すといった具合。1997年にはノーベル文学賞を受賞しております。




  さて、ここで、彼のバイオグラフィーを簡単に。

  1926年、ロンバルディーア州ヴァレーゼはサン・ジャーノに生まれる(現在御年81歳)。幼少時代をマッジョーレ湖畔地域で過ごした後、美術に関心を持っていたフォーは1940年、ブレラ・アカデミーで学ぶためミラノへ。大学は建築科に入学するも、大学の友人であったフランコ・パレンティ(Franco Parenti)に誘われたのがきっかけで、フォーは大学を退学し、演劇活動を本格的に開始していくことになる。

  1951年には、ラジオ番組の中でポエール・ナーノ(Poer Nano)というタイトルで何本かモノローグを書き出演するなどの活動を行っていた。そして1953-54年、フランコ・パレンティやドゥラーノ(Durano)らと共にミラノ・ピッコロ座で上演した『目に指を』(Il dito nell’occhio)で話題を集めることになる。54年には女優フランカ・ラーメ(Franca Rame)と結婚。伝統的な大衆演劇の役者の家系を引く女優であるフランカ・ラーメは、フォーの演劇に大きな影響を与えている。

テレビ番組に出演するフォーとラーメ  50年代は、演劇だけでなく、脚本家として映画にも携わった活動を行うが、1958年に、フォーとラーメは劇団を結成。このあと、本格的に演劇活動に入っていく。この時期に、フォーは比較的短い一幕物の喜劇を短期間で多く書いている。これらの喜劇は、イタリア喜劇の伝統的手法で書かれており、比較的政治色の弱い作品であると言えるだろう。本格的な戯曲制作を始めた当初のこの試みは、フォーにとって、喜劇の伝統的手法・枠組み・構造を噛み砕き、体得する機会となったのではないかと考えられる。また、これらの喜劇のいくつかは海外でも頻繁に翻訳上演されており、大阪外国語大学イタリア語劇、ODCでもこの時期の作品の上演を試みている。




  それまではレビューの台本や一幕物の戯曲を書いていたが、1959年には、登場人物が多数登場する三幕物『天使たちはピンボールをしない』(Gli arcangeli non giocano al flipper)を制作。これは官僚・警察・政治腐敗を皮肉った喜劇であり、彼が始めて取り組んだ大掛かりな舞台といえるだろう。その後も非常に政治色の強い諷刺劇を制作し続けていくが、60年代後半に入ると、このような諷刺劇を制作し続けるフォーに政治的圧力がかかり始める。フォーとラーメが一般の劇場での上演活動から、当時の共産党文化団体ARCIを通じた活動への変更を決断したのは、ちょうどその頃だった。これ以降の上演は、工場・広場・体育館などの場所で行われ、観客の層もこれまでの中流市民から下層の市民へと変わった。

  この時期に生まれたのが、フォーの代表作である『ミステーロ・ブッフォ』(Mistero Buffo)である。この作品は、遡ること中世のもの。道化たちが当時の演劇の主流であった聖史劇をパロディ化して行っていた物である。フォーはこの道化たちによるパロディーを再構成し、上演した。その上演は「解説→道化による聖史劇パロディー→解説→道化による聖史劇パロディー……」といったスタイルをとっている。そして、この解説の部分では、その喜劇の解説のみならず、現代のイタリア社会状況が引き寄せられて述べられ、舞台を通じてフォーは痛烈な体制批判を行った。

  このように60年代から70年代前半にかけて、その政治色の強さは衰えることなく、諷刺はますます過激になっていった。そして、彼の過激な諷刺劇は校閲を受けるにとどまらず、フォー自身が逮捕されるという事態を引き起こした。また、フランカ・ラーメが性的暴行を受けるという事件も起こっており、彼の戯曲と彼らの演劇活動がいかに右側からの反感を受けていたかが、これらの事件から伺い知れる。

  その後70年代中頃からの作品では、伝統的喜劇の手法に立ち返り、麻薬や性差別などの社会問題を扱った作品が主に書かれ、一時の過激さは弱まっていく。話題作の『ミステーロ・ブッフォ』、その過激な活動でその名を広めたフォーはその後も継続的に積極的な演劇活動を行い、翻訳上演も増えその名を世界中に広めている。

  90年代には、民衆の視点から歴史を見直した作品である『ジョアン・パダンのアメリカ発見』(Johan Padan a la descoverta delle Americhe)や16世紀イタリア・パドヴァの劇作家であるルザンテ(Ruzzante)ことアンジェロ・ベオルコ(Angelo Beolco)の喜劇作品を読み直した『ダリオ・フォー、ルザンテを演じる』(Dario Fo recita Ruzzante)などを行っている。

  そして、97年には見事ノーベル文学賞を受賞した。



  フォーの演劇の特徴、特異性はその類まれな身体性と舞台性である。そして彼の演劇活動のキーワードとなっているのが“民衆”である。連綿と受け継がれているイタリア演劇の伝統と、民衆文化・民衆の演劇を重視し、演劇性を最大限に生かした作品。彼の舞台は会場を笑いと情動の熱風で包み込み、観客たちを揺さぶる。

  ダリオ・フォーはイタリアの歴史と、彼の生きた激動の時代、そして現代イタリアが生んだ、現代演劇を代表する一人だといえるだろう。

  <文:ツィスティーけいこ>

  =参考文献=
  「ダリオ・フォーと現代イタリアの劇文学」、高田和文、1998, ユリイカ1月号(pp.262-269)
  「民衆演劇への視角―ダリオ・フォーの『ミステーロ・ブッフォ』」
    高田和文、1987、日伊文化研究25号(pp.41-58)
  Invito alla lettura di Dario Fo, Andrea Bisicchia, 2003, Mursia
  La storia di Dario Fo, Chiara Valentini, 1997, Feltrinelli



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